CRAFTSMANSHIP M1のものづくり

知られざるスゴい街

ものづくりの要衝
- 大田区/蒲田

淘汰されるんじゃ
なかったの?

流通業界においては、大規模店舗の進出によって多くの小さな店舗や商店街の多くが淘汰されてしまったことは言うまでもないでしょう。でもなぜか、ここ大田区/蒲田地区には、小さな工場ばかりが集まって元気にバリバリ仕事をしています。それは何故でしょう?小売業界のように淘汰されないのでしょうか?

答えは簡単です。一つの製品を一度に大量に生産できる大規模工場では、一度確立されたシステムの変更は容易ではありません。製品を変更しようとすれば、規模的にもコスト的にも大がかりなものになってしまいます。ところが蒲田の小さな町工場では、逆にお客様のニーズに合わせて素早く製品化するのが得意なのです。ここ蒲田にはニッチな要望にも容易に対応でき、多品種少量生産が可能な町工場が多いのです。

また専門化された分野の異なる工場が集まってネットワークを形成していることも大きいでしょう。自転車で回れるような距離に並外れて腕の立つ職人がひしめき合っているここ大田区/蒲田では、何かあればすぐに対面で打ち合わせが可能です。それぞれの業種に特化した工場が集積していて、智恵を絞り合って難易度の高い製品を手がけることができる、そんな特異な環境は、おそらく全国にもそう多くはないでしょう。

 

太田の工匠100人に選出された 当社の熟練工

小売業のように、中身が同じならどこで買っても同じ、というわけにはいきませんから、腕に覚えがある町工場には、まだまだ未来は明るいのです。

東京都23区中トップの
工業地区

エムワン精工が拠点を置くここ大田区/蒲田地区は、「設計図を紙飛行機にして飛ばせば、翌日には完成品が戻ってくる」と言われる腕利き職人の街です。(注:当社の場合、高度な製品を扱っている都合上、ここまで簡単には行きません)最近ではNHKの連続テレビ小説「梅ちゃん先生」の舞台となったことで知られています。実はこのドラマには、加工シーンのアドバイスや図面の提供という形で当社も協力しておりました。(社長の名前がテロップに、、、

この大田区は、工場数4362、従業者数3万5741、製造品出荷額等7796憶円、といずれも東京都23区中トップに君臨する、まさに工場の街なのです。そして9人以下の町工場が占める割合が、なんと82%という、スモールビジネスが躍動する街でもあるのです。

オンリーワンの技術が集う街

ご多分に漏れず、バブルの崩壊、リーマンショックを経て、蒲田の町工場もバタバタと閉鎖に追い込まれ、昭和58年に9,190もあった工場数は平成20年には4,362に減少してしまいました。しかし!皮肉にもこれによって、かえって高度な技術やオンリーワンの技術を持つ凄腕職人や傑出した町工場の集積化が進んだ側面もあるかも知れません。

原子炉の制御棒から航空宇宙関連部品まで、とにかく何でも作っちゃう、CNCマシニングなんかにゃ負けはせん!と息巻くスゴ腕のオッサン達がビックリするような精度の精密部品をバンバン作って世に送り出しています。特に、大手さんの嫌がる癖のある仕事を、むしろ喜んで引き受けちゃう猛者達が「部品を削ってしのぎを削る」のがここ大田区蒲田地区なのです。今まで近場の下請けで作らせてたけど精度がイマイチ。そこで大田区の町工場に持ち込んだらピタっとおさまって、オマケに改善のアドバイスまでもらっちゃった、なんてことが、案外しょっちゅうあるものです。

 

当社のテーパー研磨加工センタレス加工も、そういったオンリーワンの技術の一つと言えるかも知れません。とにかく沢山のノウハウを持っていて、精度の妥協が許されない難しい仕事ができる職人が多いのが、ここ大田区の特徴でもあるかも知れません。

簡単には
真似できません

一時期、日本の工場がこぞって海外進出を目指した時期がありました。技術の流出も心配されましたが、実際蓋を開けてみると、精度も仕上がりも日本の職人の仕事には遠く及ばず、そのほとんどが撤退とあいなりました。やはり、精密部品加工は、人件費が安いという理由だけでどこにでも移転できるものではないのでしょう。

精密部品にあっては、数値的に許容値に入っていればそれで良いのか?というと、そうでもありません。当社でも、過去に、安価な調達先に変更したことで大変な損失をこうむったお客様を何度か見てきています。今、当社の品質を支持してくださっているお客様企業のいくつかは、少なからず、このような経験をされたことがあるようです。リアルな経験談として、たった一つの調達先の選択ミスで生産計画が台無しに、といった話も。。。

 

ほんの一例ですが、測定結果が良くても不具合が出る原因について書いた記事がありますので、よろしければ、こちらのページもご覧になってみてください。

また、どんなにCNCマシニングが進化しても、肝心なのは、それを操作する職人の腕、といった記事がこちらにありますので、合わせてご一読ください。

ネットワークがスゴい

小さな町工場がひしめく大田区では、研削専門、研磨専門、焼き入れ専門、のように、一芸に秀でたスペシャリスト工場が多いのです。しか~し!お互いが自分達の強みと弱みを自覚しているだけに、ヘンに仕事を囲ったりしません。「こんなのできる?」なんていいつつ、お互いにどんどん仕事を回しあいます。一般企業さんのように、できるか、できないか、という基準で仕事を取捨選択するのではなく、これならあそこを回って、あっちを回って、そんでもってウチに来ればできるね、といった段取りになるわけです。これが俗に言う蒲田特有の「ちゃりんこネットワーク」と呼ばれる仕事形態です。自転車で回れる範囲に、信頼できる仲間内がひしめきあっている、という意味合いです。頼む相手の腕をしっているから、知らないところに頼んだら駄物が届いちゃった、なんてことが少ないのもここ蒲田のネットワークがあるからこそ、と言えるでしょう。

当社でも腕利きの工場を集め、「カマタ・マイスターズ・ネットワーク(KMN)」と称して持ち回りで仕事をしています。お客様の中には「蒲田は知ってるけど、どの工場に頼んだら良いかは分からない」という方もいらっしゃるでしょう。ご相談いただければ、KMNのネットワークで対応するか、または、場合によっては対応できるところをご紹介いたします。たとえば各工程ごとに5つの会社に相談・発注・検収等をする手間を考えれば、信頼できるところにワンストップで依頼した方が時間的にもコスト的にもはるかに有利です。エムワン精工では、太田の工匠100人にも選出された国内有数の職人が在職する工場を含むネットワークを駆使し、お客様の様々なご要望にお応えしています。

なぜ高精度品の
多品種・少量生産に強いのか

まだ大田区という地名がなかった江戸時代前期、このあたりは農村地帯でした。この頃、大森は有名な麦わらと切り花の産地であったと言います。後期になると、海苔の一大産地となり、漁村として発展。大正時代以降は大規模な工場が進出する工業地帯として発展しました。1940年までには、日本蓄電池、日本特殊鋼、東京瓦斯電気工業北辰電機製作所山武計器東京計器日本精工三菱重工三井精機荏原製作所キヤノン等の大企業が大田区で操業しています。戦後、焼け野原となるものの直後の朝鮮特需によって大田区は大いに沸きました。ところがその後、居住区における大規模工場の操業が困難となり、大工場が次々と大田区外へと移転。こうして、大企業のもとで研鑽してきた下請け工場だけが大田区に残ったというわけです。

そんな中、オイルショックの際には、親会社からの仕事減とコストダウンに苦しみ、生き残りをかけて高精度化、高品質化、専門化に取り組み、さらには受注先の分散化によるリスクの軽減を図り、独自の方向性へと進化を遂げてきました。このときの方向転換が「高精度品の多品種・少量生産」を強みとする今の大田区、蒲田地区の町工場のベースとなっていると言えるでしょう。そんなわけで、大田区では、小回りがきいて、腕が立つ職人が、今も、ものづくりに励んでいるのです。

大田区の意外な顔

ところで、大田区ってちょっと変わったエリアでもあるのです。言わずと知れたセレブタウンの田園調布って、世田谷区だと思っている方も多いんじゃないでしょうか?実は、田園調布も大田区です。大田区には、ワールドクラスの高精度部品を手がけるイケてるオッサン達と、全国きってのセレブ達が共存する不思議な街なのです。。。。と言っても、田園調布と蒲田はずいぶん離れているので、実際には共存と言えるほど隣接してはいません。

あまり知られていないことですが、田園調布って6世紀の古墳時代には埴輪の生産地だったのです。田園調布埴輪工房址という遺跡が発掘されていますが、どうやら埴輪の製造は貧しい竪穴で細々と行われていたんだとか。。。当たり前ですが、太古の昔からセレブの街だったわけではないんですね。

 

ローカルな香りが漂う蒲田の商店街

大田区は、商店街の数が東京都23区でナンバーワンでもあるのです。全国的に大規模店舗の波に押しやられてしまっている商店が、ここでは踏ん張っているわけです。町工場、だけじゃない!スモールビジネスがパワフルです。

そしてもう一つ、大田区が「オタク」を連想させることから、オタクの街を地味に目指しているという説も。。。確かに日本工学院蒲田校には声優科があるし、当社も何回か出展したことがある大田区産業プラザPIOでは、マニア垂涎のコスプレイベントが頻繁に開催されると言います。しかし、聖地、秋葉原には足下にも及ばないと言わざるを得ないでしょう。ちなみに当社で出展したのはコスプレイベントではありませんので、誤解?あるいは期待?されないでくださいね。別の意味で、マニアックな製品、ウェルカムです♪

余談ですが、当社にも将来有望な若いオタク職人が在職しています。彼に言わせれば「オタクもマニアも変わらない。オタクをバカにしないで欲しい」のだとか。。。将来、日本国憲法にオタク権が認められる日もそう遠くない?

ちょっとだけ歴史探訪

「オッケー!」(池上本門寺の仁王像)

大田区にいらしたなら、池上本門寺のような風光明媚な名所を訪ねてみるのも、おつなもの。でももし、もう少しディープな大田区の歴史に触れたいなら、大田区立郷土博物館に足を運ばれるのも良いでしょう。来客のまばらなこの博物館、ほぼ貸し切り状態で見学できることも少なくありません。しかし、あなどるなかれ!なかなかどうして意外に面白い展示が満載です。 その展示のいくつかをご紹介しておきましょう。

大田区の馬込には北原白秋や、伊豆の踊子で知られる日本人初のノーベル文学賞受賞者である川端康成といった日本を代表する文豪が住んでいました。川端康成は当時の様子を「細君連中が相次いで断髪し、ダンスが流行し、恋愛事件が頻出し、大森の文士連中のまはりは、なんだか熱病に浮かされたようであった」と記しています。どうやらこの頃の大田区は割と流行の先端を行くエリアであったようです。ここには当時の本や雑誌も多数展示されていて、「ルイタス」(当時の読み方で「スタイル」)と書かれた雑誌の表紙など、見ていて楽しいレトロな書籍が展示されています。

エムワン精工の所在地「六郷」にまつわる歴史も少々。江戸時代、徳川家康が直轄地を豊かにするために「六郷用水」を作らせました。これは水田に水を引くための灌漑用の用水路でした。将軍様のお膝元で16年間もかかって完成した一大土木工事が当社社屋の周辺で行われていたのですね。

ここ六郷は麦わら細工の産地でもありました。「麦わら帽子」って、ここ六郷が発祥の地だったのですね。といっても当社の近辺に麦わら細工のお土産屋さんなどは一件もありませんので悪しからず。

昭和13年(1938年)には、とある航空機が周回航続距離の世界記録を樹立しました。(1万1651キロ:62時間)この機体は大田区大森の東京瓦斯電気工業で製作されたもので、この会社は後に日野自動車いすゞ自動車日立精機日立航空機などに分社しています。工作機械から軍需産業まで手がけていたこの会社をはじめ、数々の最先端企業が大田区でスゴいものを作っていたんですね。

蒲田の工業の歴史を語る上で忘れてはならない企業の一つに黒沢商店があります。黒沢商店とは、薬問屋の丁稚奉公であった黒沢貞次郎氏(くろさわていじろう:故人)が蒲田に設立したタイプライターの工場でした。苦労して渡米し、和文タイプライターを開発した黒沢氏は、2万坪の敷地に社宅、菜園、幼稚園、小学校、プールまでをも建築。光熱費、水道料、入浴料は無料であったというから驚きです。今はなき、ものづくりのユートピアが蒲田にあったわけです。

さて、いかがでしたでしょうか?このページで、より大田区と当社のバックグラウンドに興味を持っていただけたら幸いです。それでは皆さん、お仕事の打ち合わせの際にお会いしましょう♪

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